生まれたその時から親になる?
母と呼ばれて7年が経ちました。
娘はいま小学校1年生で、もうすぐ2年生になります。
保育園の頃、私はいつもいつも、いつまで経っても多忙で、彼女の表情を慮る時間も少なく、気になってはいても日々の仕事に加えて、家事育児掃除にと日々のタスクに追われていました。
いま40代くらいの母親たちは、いろんな社会の「こうあるべき母親像」を多種多様に、且つその時代その時代で変容しながら求められ、追いかけられてきた気がします。母親はこうあるべきのなかに含まれる役割はさまざまで「20代の中で結婚すべき」とか「働きながら子育てすべき」とか相手や時代背景によって、持つ答えが全くもって違うんです。
働きながら娘の体調不良や発熱の時、仕事と母親業の両立を鑑みては、どうにもうまくいかないなぁと、後ろ髪を引かれる思いを幾度となく経験しました。
自分と子どもと家族のシアワセ
こどもが生まれた瞬間から、わたしはお母さんと呼ばれるようになり、夫は夫でお父さんと呼ばれる環境。
けれど、親と言われても経験値として変化したのは、「出産した」という事実と子どもの世話が増えたということだけ。私は出産当時、2度死にかけたことで、まさしく「九死に一生を得た」という状態でした。そこでできることといえばナースステーションに子どもを預けて体力を回復すること、のみでした。
何を伝えたいかというと、親になったといってもそこで変わるのは存在という名の変化。親というのは、そこから徐々に変化していくのみです。だからこそ、気負わずに少しずつでいいから、子どもと一緒に成長する親でいいじゃないですか。
間違えることを恐れない、間違えたら謝ればいい
親になると、途端に親は間違ってはいけないとか、子どもに対して威厳を。なんて考える人がいるようですが、本当にそうでしょうか?
間違えない人間がいないように、親だっていくらでも間違えます。
そういったことを履き違えて、その役割に埋もれてしまわないように、いつまでも親は子どもと一緒に育ち、楽しむべき物だと思いたいです。
「トライアンドエラー」という言葉があります。
暗中模索とか、試行錯誤と日本語で表現されるようですが、失敗という概念ではなく身を結ぶまで必要な挑戦を繰り返し続ける、ということ。
子どもと一緒に、二人三脚で楽しむ。転んだ時は一緒に転ぶ。間違えた時は一緒に次を目指せる親でありたい。幼い頃に一緒にいる時間が少なかったことを、今更悔やんでも何も進まない。だからこそ、時間を大切に使いたいなと思う今日この頃です。